こんばんは、50日目のようです。
今日は家族が亡くなってしまった。
常々思う。死に直面した時に、すぐに対応できるような準備をしておいた方が良いのではないかと。
家族がこんなに早く亡くなると思っていなかったから、少し慌てた。
誰かの死を受け入れたり、生を振り返ったりするときに慌てたくない。お互いに心安らかに見送りたいと思うし、見送られたいと思うだろう。
自分の死を考えてもそうだ。いつまでも雑音が続いている中で安らかに眠れるわけない。
私が死んだら、まず決めているのは私がもしお金を残していたら、未来がある人に寄付して欲しいということだ。
家族は自分で生きればいい、そうではなくもっと困っている人が、本当にお金というものが生きるために必要な人に渡ってほしい。
お金が欲しいではなく、今生きないといけないと思っている人に与えて欲しい。
自分に財産があればの話で、たらればの話をしても正直そこまで意味をなさないかもしれないがこれは準備だ。
なるべく、自分の財産は生きているうちに使い切りたいし、生きているうちに寄付したいと思うから。
Die with zeroを予定している。
遺書は一回書いた。もう一度書き直そうと思う。書き直して本当にこれを伝えるくらいに生きたか、生きているかを問うてみたいと思う。
この話はここまでにしておいて。
私は読書力がないことを恥じている。
私が書いている文章を読んで、知性を感じられない。
そもそも漢字が少ないし、口語的で書き言葉ではないからだ。
ここ最近は本を読んでいるが、正直読書力を上げるためのトレーニングとしての読書ではなく娯楽としての読書だ。
漫画も、小説も、ビジネス書も、娯楽だと思う。
これらを読むときは緊張感がない。要約できるように、著者が言いたいことを発見できるようにという能動的な姿勢とプレッシャーがない。
友人の中でも優秀だと思う人がこれまでの人生で読んできた本を読んでみると、すごく頭を使う。
読むペースが遅くなるのだ。理解が追いつかないから読み直すこともある。
少しだけ後悔している。若いうちに読書力をつけるための読書をしてこなかったことを。
環境のせいにしてもいいが、自分でそのような教養を身につけようとしなかった、足りないことをわかっていなかったことを反省したい。
今から、「読書力」に書いてあった本を読んで、自分のペースで4年間で100冊を目標にトレーニングしてみようと思う。
それまでは本をよく読むんですなどと決して言わないようにしようと思う。羞恥心が消えるまで。
もう少し、この日記に書く文章もよくできるように、、
アンニョン。
明日も一緒に歩もう。働こう。生きよう。